後援会長コラム『クラゲ館長釣れずれ日記4』

加茂南防波堤

久しぶりに訪れたクラゲ水族館は、やはり訪れる客が少なく第4波だか5波だか知らないがコロナの影響をもろに受けて静かなものだった。クラゲに見入る若い外人さんのカップルに声をかけてみたら、県境を越えた宮城県からだったのはこの騒ぎの中だから意外だった。

昨日は火曜日だったから客が少なかったかも知れないが、コロナ騒ぎさえなければ秋の行楽シーズン真っただ中の今頃は、平日だって日本中からやってくるクラゲ目当ての客で、館内に渋滞が起きるほども混雑するはずだったのだが何ともがっかりさせられる。

現役の時に使っていたパソコンから必要なデータを移し取って一仕事終え、屋上に上がってみたらいつもと変わらぬ絶景が広がっていた。眼下に広がる加茂港の向こうに白砂青松がありその上に出羽富士鳥海山がそびえ立っている。

館長時代は毎日2度か3度はここまで上がって景色を眺めていたものだが飽きることはなかった。そしていつの間にか屋上に植えた芝生に生える「雑草を引き抜く」のが日課になっていた。毎日採っても次の日にはまた必ず生えているものだった。

加茂荒崎灯台の向こうに離岸堤が2つ見えていた、そして手前には水産高校の裏から南防波堤が伸びているが、あのすべての防波堤で釣りをした記憶がある。

古い思い出から順に思い出してみたい。昭和50年ごろにはまだ沖の離岸堤はなく南防波堤が延長工事をしていた。中ごろにわずかな「切れ目」が見えるがあそこには頑丈な橋がかけられ、砂利を積んだダンプやらコンクリートミキサー車やらがせわしなく行き来して南防波堤は日々少しずつ延長されていた。

工事中は釣り人が入ることができなかったが、仕事が終わる夕方の5時過ぎとか日曜日になれば釣り人は橋を渡り先端のほうで自由に釣りをした、記憶では南防波堤の周囲は深さが2間半(4,5m)あったと思う、ここぞと思う岸壁に腰を下ろして塩漬けにしたコアミと砂を混ぜて撒き餌をして、その年に生まれたアジや、ウマズラ、タカバ、サヨリなど寄ってきた小魚を釣るのだが、中にフグが混じっていて餌ばかり取られて狙う相手はなかなか釣れてくれなかった。

1時間とか2時間とか粘っているうちに、撒き餌が効いてきて底に何やら大きな魚がうごめいているのが薄らと見えるのだが、それを釣りたくても目指す相手に釣り餌が届く前にわっと寄ってきたフグやら、ウマズラやらが餌を盗ってゆく、あの小魚さえいなければとは思うが如何ともしがたかった。

大きな重りを付ければストーンと落ちてゆくかもしれないが、それではずるく賢いクロダイの2歳物や,黄鯛(27cm~38cmのクロダイ)は釣れない。澄んだ水の中での釣りだから何とか重りを付けずに、「針と餌だけの仕掛け」をあいつらの目の前に届けることができれば、「なっても釣れる”」、、、、何とかならないものか。

仕事のことはとんと無関心に過ごしていたが事釣りとなると違ってくる、夜も昼もなく考えたそして思いついたのが「団子釣り」だった、今だったら何だそんなこと誰でも知っているじゃないかと思われるかもしれないが、昭和50年ごろだからそんなことは誰も知らず、思いつくこともなかった。

しかし私の記憶にはかすかに「若狭湾で行われている団子釣り」という言葉だけが残っていた。見たこともないし教えてくれる人もいない確かに餌を団子に包んで、海底に届けその後に団子を割れば重りのない仕掛けがふわりとクロダイの前に現れるじゃないか、何とか工夫して作ってみよう、、、。

道路わきの斜面からさらさらに「崩れ落ちた赤土」を取ってきた。そして少しの砂と小麦粉を混ぜて捏ね上げた、調合がどの比率がいいのか何度もバケツに水を張って試してみた。こんなことをしている時の男は遠足前の子供のように実に楽しいものだ。土をこねる手が震えるほどもワクワクしてくる。

10月の日曜日だった。なんとか納得がゆく団子を作り上げ、仕事が終るのを待ちかねて南防波堤に吹っ飛んでいった。2間(3,6m)の良く曲がる「矢竹の庄内竿」を引っ提げて駆けつけると、先端のほうには数十人の釣り人が構えていた。

いずれもエサ盗りに悩まされろくな魚が釣れていないのが見て取れた、「よし今に見てろよ、今日は俺様が竿が起きてこないような奴を釣ってやるぞ」、さんざん撒き餌をしたと思える年寄りの横に「こごさ入らせてくれちゃ」と断って、どかどかと撒き餌を足元に入れた。

そして2間半の竿にハリス0,8号を2m重りは付けず、人に見えないように隠れて「赤土の団子」に餌を包んだ。底に落として糸を張りチョンと竿先をあおって団子を割った。半信半疑だった、、、、「本当に下にいるはずのクロダイが食いついてくれるのか」、、、待つ間もなく小さくしっかりした当りが来た。

「よし来た”」ビシッと合わせをくれるといきなり竿先が絞りこまれた。竿先が水面に突き刺さってゆく。「オー、、来た”」っと大きな声を出した。細い矢竹の竿が絞り込まれ大きく曲がって魚は浮いてこない。ギーギー、、、と音を立ててリールから糸を出してわざとゆっくりやり取りして周りを見回した。数十人いた釣り人はみなこっちを見ていた。

あの心境は良く分かる、、、羨ましいこと限りないのだ。まず1匹目に33cmの黄鯛をタモで掬った。そしてまた団子で包んで釣るとすぐに同じ奴が釣れまた大きな声を出した。「また釣れたー」、するとどこからともなく「あの奴まだ釣ったぜー」という声が聞こえてきた。釣り人の心理としてみんなが羨ましいのだ。こっちとしてはこんなことはめったに無い。誰も釣れない時に「自分だけが釣る」、、、天にも昇る心境とはこんなことを言うのだろう。

この日はほかに25cmの2歳物を3匹釣って竿仕舞にした。庄内にまだ団子釣りが普及する前だったから、しばらくは南防波堤の主のように釣果を上げた。その後沖に新たに離岸堤ができるとあれだけ釣れた南防波堤は周りが砂で埋まり、魚は新しいほうに移って行ってしまった。今は一番沖側にある離岸堤が良いようだ。

2021,9  会長 村上龍男

5つの重点政策 (辻立ち動画)

皆川市政の下で令和元年度にスタートした今後10年間のまちづくりの
指針(第2次鶴岡市総合計画)を実行、前進!

①若者定住促進

新たな産業用地と200万円奨学金返済支援


県No.1の産業・ベンチャーの受け皿へ、近年分譲が進む大山に次ぐ用地の開発を推進。
最大201.6万円支援「つるおかエール」と併せ、若者の定住を促進。

②子育て世代応援

学校給食費第2子も無償化


第3子以降(平成30年度~無償化)に加え、第2子も無償化。5小改築への学童併
設に加え、3小学区、京田の学童施設改築等、子育て世代に選ばれる街へ。

③誰ひとり取り残さず命と暮らしを守る

地域医療福祉充実


非正規から正規雇用への転換、障害者雇用促進、医療的ケア児・ヤングケアラー
支援、高齢者等移動手段・除雪支援の充実、地域医療提供体制の抜本的改革推進

④未来基金で地域を応援

過疎対策の司令塔へ朝日庁舎改築


地域まちづくり未来基金、小規模修繕を更に使いやすく充実。鶴岡・藤島・羽黒・櫛
引・朝日・温海、各地域の個性を活かした自立分散型のまちづくり。

⑤給食センター、新図書館構想

更なる市民参画まちづくり


第3中学区体育施設に第2コミセン併設、藤島中学校を含む文厚エリア、栄・渡前等の防災等多目的施設、旧鶴岡病院・鶴岡南高校山添高の活用(市民プール、人工芝サッカー場等)などまちづくり構想の検討・推進。

後援会事務所皆川治 YouTubeチャンネル


皆川おさむ 一期目の実績


【対話で解決!「新文化会館論争」に終止符を打ち「最終処分場」「三川町とのごみ問題」決着しました!】
「新文化会館問題」に関しては、整備費用の大幅増など前市政時代の混乱の責任を引き受け、市長給与約40万円(44%)カット(91.4万円→51.5万円)を継続中。これは副市長、教育長より低い額です。
地元での受け入れが難航していた大荒の「一般廃棄物最終処分場」ついては、粘り強い交渉の末合意を取り付け、計画が進行。今年10月の供用開始に漕ぎつけました。
また、今年4月には「新ごみ焼却施設」が完成。懸案事項になっていた、お隣・三川町との受委託協議も対話で決着しました。

後援会長コラム『クラゲ館長釣れずれ日記6』

加茂坂を越えるのはつらいものだったなー

今は使われていない古い加茂坂は、加茂水族館で働き始めた昭和41年ごろまだ舗装もされておらず、曲がりくねったでこぼこ道がくねくねと続く寂しい道だった。冬になると路面のいたるところが深く掘れて水が溜まり、通勤のバスもがたんごとんと実にゆっくりと走っていた。

今は立派なトンネルができて海に出るのも快適になったが、あの頃の道は大山の街はずれからいきなり高館山に向かって急こう配に登ってゆき、「幽霊が出る」とまことしやかに噂されるた古いトンネル迄、手つかずの山をほうふつとさせる木々が頭上にまで枝を伸ばしていい景色を作っていた。

(このトンネルは驚くような言い伝えがある、ミイラになって大網の注連寺に鎮座する「鉄門海上人」が、加茂村の人々が当時幕府の直轄地として栄えた大山まで行き来する際に、峠越に難儀するさまを見て新しく道を開くことを決意し、峠には隧道を自力で掘り始めやがて近隣から1万人の村人も協力するようになり、苦労の末に3年後に完成したものだ。鉄門海は22歳のころに村人を苦しめる役人を殴り殺して大網の大日坊に逃れ、即身仏になることを決意し役人の追求をかわし、修行を積んだのちに江戸に出た。

当時眼病が流行っていて自分の片目をくりぬき「隅田川の龍神」に祈願、眼病は収まったと伝えられている。前述の加茂に新道を築くなど多くの徳を積み信者を集め、最後は土中にこもって即身仏となった、加茂坂トンネルの近くに石碑がある、、、ユーチューブより)

加茂坂はいい景色なのだがしかしいつの頃からだっただろうか、通るたびに嫌な風が胸の内を吹き抜けるような、血の気が引くような果てしもない寂しさがこみあげるようになったのは。

おそらく平成の初めごろからだったと思うが、あちこちに見える太い木々の「横に張った立派な枝」がやけに目に付くようになった。「俺があの枝からぶら下がるのではないか?」このまま仕事がうまくゆかなくなれば早晩倒産の日が来るだろう。借金はすべて自分の背中にあったから無事で済むはずがない、、、、。

俺は気が小さいし、才覚もない。おそらくは夜逃げするかあの世に逃げるかするほかないだろう、、、そんな思いで羽黒の我が家から通勤していた。

体も不調だった。医者に行ってみてもらえばどこも悪いところはなく「至って健康だ」といつも言われていたが、仕事の不振が続くと全身おかしくなってきた、まず揚げ物も肉も油いためも食べることができなくなった。

継いで来たのがバターだけではなくチーズやヨーグルトなどの乳製品も一切口にすることができなくなっていた。結局野菜に納豆、イモや海藻など、油を使わぬものだけの、、、これじゃまるでキリギリスかイナゴではないか、自嘲を込めて「ミイラになる修行をしているようなもんだの」とうそぶいていた、、、今思えばだが、暗く沈んだ顔で自分の石碑の前を行き来する若い男に「鉄門海上人が憑依」したのかもしれない。

しかし現金なものだと思う。業績の回復とともに横に張った木々の枝も、肉も乳製品もすべて気にならず「にやり」としながらあの頃を思い出される隠居老人になった。新しいクラゲ水族館にはピンチだった私を助け「苦楽を共にした」職員が何人か残っている。お互い「言葉は不要だ」顔を見ただけで胸にじんと来る思い出が私を幸せにしてくれる。新しいトンネルを潜り抜けてまたクラゲを見に行ってみたいものだ。

2021,9,13  会長 村上龍男

後援会長コラム『クラゲ館長釣れずれ日記3後編』

今日外から眺めるクラゲ水族館は立派だった。

今駐車場になっているあのあたりに思い出が詰まった古い水族館があったのだ。「長く続く入館者の減少と施設の老化には泣かされた」、ついに雨漏りは止めることができなかったし、コンクリートの柱や梁は塩害いのためか亀裂が入り、地震が来たらいつ崩れてもおかしくない有様だった。

「館長、、、飼育係はいつも1階にいる、地震が来たら俺たちが一番先に死ぬのか」と奥泉に言われていた。2階の事務室にいる館長が一人生き残ったらみんなに顔向けならないなーと思ったものだった。

業績の悪化とともに、クラゲ館長もすっかり暗くなり、ついに終わりの時が来たかと思ったものだった。「まあなんというのか地獄の釜に片足を突っ込んだような、救われないあきらめの境地かなー」。

あそこでくらげに出会ったのだから、何ともこの世は複雑怪奇で摩訶不思議ともいうべきだろう。

どん底を迎えた平成9年の春苦し紛れに「生きたサンゴ展」と称した、ちょっとした展示を始めた。ここにクラゲの神様が希望の種を角蒔いておいてくれた。

展示を始めて1月が過ぎた4月、サンゴの上にごみのように小さな生き物が20~30匹泳ぎだした。これが何者か誰もわからなかった。私だって「何だかおかしな奴だのー、何だもんだろ」というばかり。

これがクラゲだったとは今思いだしても偶然にしては出来すぎだった。やはりクラゲの神様が「日本一小さな水族館が今にも終わりそうだ、かわいそうだから助けてやろう」と応援してくれたとしか思われない。

この見慣れぬ生き物に興味を持った奥泉飼育係が餌をやって育てたらクラゲになったのだ。これも見えない手で導かれたようなものだ。彼が興味を持たなければ「変な生き物だなー」で終わっていたことになる。

あの出会いから23年になる。この白い建物は今や全国の水族館動物園の「人気ベスト10で8位」、水族館だけでいえば上には沖縄の美ら海水族館だけという全国2位だし、広く目をやれば世界中の水族館仲間がクラゲを学びに来る知れ渡った存在になった。

どっこい地獄の窯も悪くはないようだ。あそこにはクラゲの神様が待っていてくれたのだ。

2021,9,10  会長 村上龍男