後援会長コラム『クラゲ館長釣れずれ日記6』

加茂坂を越えるのはつらいものだったなー

今は使われていない古い加茂坂は、加茂水族館で働き始めた昭和41年ごろまだ舗装もされておらず、曲がりくねったでこぼこ道がくねくねと続く寂しい道だった。冬になると路面のいたるところが深く掘れて水が溜まり、通勤のバスもがたんごとんと実にゆっくりと走っていた。

今は立派なトンネルができて海に出るのも快適になったが、あの頃の道は大山の街はずれからいきなり高館山に向かって急こう配に登ってゆき、「幽霊が出る」とまことしやかに噂されるた古いトンネル迄、手つかずの山をほうふつとさせる木々が頭上にまで枝を伸ばしていい景色を作っていた。

(このトンネルは驚くような言い伝えがある、ミイラになって大網の注連寺に鎮座する「鉄門海上人」が、加茂村の人々が当時幕府の直轄地として栄えた大山まで行き来する際に、峠越に難儀するさまを見て新しく道を開くことを決意し、峠には隧道を自力で掘り始めやがて近隣から1万人の村人も協力するようになり、苦労の末に3年後に完成したものだ。鉄門海は22歳のころに村人を苦しめる役人を殴り殺して大網の大日坊に逃れ、即身仏になることを決意し役人の追求をかわし、修行を積んだのちに江戸に出た。

当時眼病が流行っていて自分の片目をくりぬき「隅田川の龍神」に祈願、眼病は収まったと伝えられている。前述の加茂に新道を築くなど多くの徳を積み信者を集め、最後は土中にこもって即身仏となった、加茂坂トンネルの近くに石碑がある、、、ユーチューブより)

加茂坂はいい景色なのだがしかしいつの頃からだっただろうか、通るたびに嫌な風が胸の内を吹き抜けるような、血の気が引くような果てしもない寂しさがこみあげるようになったのは。

おそらく平成の初めごろからだったと思うが、あちこちに見える太い木々の「横に張った立派な枝」がやけに目に付くようになった。「俺があの枝からぶら下がるのではないか?」このまま仕事がうまくゆかなくなれば早晩倒産の日が来るだろう。借金はすべて自分の背中にあったから無事で済むはずがない、、、、。

俺は気が小さいし、才覚もない。おそらくは夜逃げするかあの世に逃げるかするほかないだろう、、、そんな思いで羽黒の我が家から通勤していた。

体も不調だった。医者に行ってみてもらえばどこも悪いところはなく「至って健康だ」といつも言われていたが、仕事の不振が続くと全身おかしくなってきた、まず揚げ物も肉も油いためも食べることができなくなった。

継いで来たのがバターだけではなくチーズやヨーグルトなどの乳製品も一切口にすることができなくなっていた。結局野菜に納豆、イモや海藻など、油を使わぬものだけの、、、これじゃまるでキリギリスかイナゴではないか、自嘲を込めて「ミイラになる修行をしているようなもんだの」とうそぶいていた、、、今思えばだが、暗く沈んだ顔で自分の石碑の前を行き来する若い男に「鉄門海上人が憑依」したのかもしれない。

しかし現金なものだと思う。業績の回復とともに横に張った木々の枝も、肉も乳製品もすべて気にならず「にやり」としながらあの頃を思い出される隠居老人になった。新しいクラゲ水族館にはピンチだった私を助け「苦楽を共にした」職員が何人か残っている。お互い「言葉は不要だ」顔を見ただけで胸にじんと来る思い出が私を幸せにしてくれる。新しいトンネルを潜り抜けてまたクラゲを見に行ってみたいものだ。

2021,9,13  会長 村上龍男