対話とミニ集会

ミニ集会を継続している。茶の間で、公民館で、企業の会議室で。

その中で、「新文化会館整備問題だけが争点ではない」といくら主張しても、この問題に触れられないことはない。端的に言えば、多くの市民は怒っている。日々、市民と対話を重ねる中で、そのことを強く感じる。

もちろん、文化会館の問題にとどまらず、教育、医療・福祉、農業、商店街、地域コミュニティ、貧困と格差、更には議会のチェック機能まで、実に様々な問いかけがある。

高齢者への支援、子育て環境の整備、旧町村の活性化など、財源の捻出に工夫を要する分野は数多くある。だからこそ行政は、市民目線の成果目標をしっかり定め、最小の経費で最大の効果を生むように努力し、そして市民の「なぜ?」に対し説明責任を果たす必要がある。

新文化会館については、私は、最大限活用することに注力したいが、今現在も市民の間に不信の声があり、視界不良、霧が晴れないことは本当に残念だ。なぜ市民の間にこの問題をめぐる不信がここまで根深くなってしまったのか。新文化会館の整備問題には、市民の「なぜ?」が凝縮しているようだ。整備過程を巡る意思決定の在り方、地元の技術・資源の活用、議会との関係など、一公共施設の設置に止まらない現在の市政全般に渡る構造的な問題が姿を表しているととらえるべきだろう。いわば、対話に欠ける市政の象徴となってしまった。

政治の役割はなんだろうか。様々な会合に顔を出し、笑顔を振りまくことなのだろうか。政治は結果責任を負わなければならない。私は、政策本位の論争を展開する覚悟を、政治家もそして市民も持たなければ、いつまでも愛想の良い政治家が、説明責任を果たさず、責任を負わないままで継続してしまうことになるのではないかと危惧している。

誇るべきまち・鶴岡を未来へつなぐ責任は、等しく、市民が負っている。4月下旬にも提示するとしていた公約も打ち出さないままに政党の推薦が決まってしまう。変だなと思うことに声をあげなければ、鶴岡は変わっていかない。私は、市政において党派色を強く打ち出す必要はないと考えている。多様な市民の声を聴く、市民党として、市民の課題に寄り添いたい。そのための対話とミニ集会を継続している。もう4年間、今の市政を継続するという選択肢は、私は「ない」と思っている。しかしそれを選択するのは市民一人一人なのだ。

故郷は農林漁業と共に 

※雨の中の苗出し作業(4月15日)。黄金色の秋の稲穂を目指して。

鳥海山の山肌に種まき爺さんが現れる頃、庄内地方の農作業は本格化する。

4月8日に立候補の表明をし、挨拶回りに追われる中、どうしても外せない行事があった。我が家の苗出し作業だ。稲作農家といえば、田植え、稲刈りの様子が思い浮かぶだろう。「苗出し」は田植えができる状態まで苗を育てるための準備作業だが、これに参加したことのない人は「?」な作業だろう。

今年は、4月15日、早朝から作業が行われ、地元のJA(農業協同組合)の職員さんも参加してくれた。JAの職員さんといっても、当然、非農家出身の方もいて、企画、金融、購買といったいわゆる事務業務に従事していれば、実際の農作業、農業現場の実態把握が十分に行き届かないとしても責めることはできない。そこで、組合長さんの発案で、庄内の春の農作業の代名詞である「苗出し」にJA職員を派遣することになったのだそうだ。農家は助かり、JA職員は現場を学べるWIN-WINの関係。とっても素晴らしいアイディアだ。

育苗の方法は、ほ場に簡易な育苗施設を作ったり、ハウスを活用したり、シートを被せて温度管理をしたり、水に浸したり、農家ごとに様々な工夫がされている。また経営規模も、私が最近お話を聞いた農家だけでも25ha、7ha、4haと様々だ。正に百聞は一見に如かずだ。

GWに入ると早いところでは田植えが始まる。そしてこの時期、地域では豊作を祈る祭りが行われる。5月4日に伺った羽黒町高寺地区で行われた高寺八講(たかでらはっこう)もその一つ。昭和51年に県の無形民俗文化財に指定された豊作を祈願する舞、神事だ。

農林漁業は確かに一つの産業だ。しかし、日々の生活に欠かせない食料を供給し、文化を継承し、自然環境と一体の、地域とともにある産業だ。英語では、プライマリー・インダストリー(Primary industry)。「一次産業」という日本語よりも、要の、不可欠な産業であるとの意味が伝わってくる。農林漁業をなくして故郷はない。巡り巡る季節の中で、故郷の祭りに参加するたびに、農業を始めとする一次産業を絶対に次の世代につなげて行かなければならない、との思いがこみ上げてくる。